自由なのか何なのか…波乱万丈な人生をおくる帆足のプロフィールでございます。


2018-07-25加筆・修正

こんにちは。

『投資をして自由にはたらこう。』を一から九くらいまで運営している帆足です。

24歳の頃に福岡で起業し、すっかり社長とよばれることが定着してきました。

事業の柱に不動産がありますので高額の商品も扱っている会社ですので、どんなヤツなのかということを説明すべくここらでプロフィール詳細を書きます。

自己紹介の幅をこえて起業までの人となりをエピソード化していますので、ご興味あるかたは長いので心してお読み下さい。

簡単な自己紹介

名前は帆足 太一(ほあし たいち)
株式会社SOSOGooホールディングス 代表取締役 兼 CEO

<保有資格>

  • 賃貸不動産経営管理士
  • 運転免許証

資格は、勉強なしの腕試しで受けたことがある資格くらいしかもっていません。
経営者として会社のあるべき姿をとるとき、選択肢をせばめることがないようにあえて資格取得はしていません。本当です。

食品衛生責任者とか防火管理責任者とか、保有資格として書いたら逆にいじられそうな資格ならもっています。(笑)


※福岡県は大川のうなぎせいろ蒸しをたべて感動している顔。

 

年齢は31歳(2018年7月現在)

大分県玖珠郡玖珠町出身

趣味:商売、投資

 

中学まで同級生は50人程度のちいさな学校でぬくぬくとすごしました。

高校は大分県の日田市にある日田高等学校にいきました。

ええ、あのムツゴロウさんの出身高校です。

 

高校からは同級生が360人くらいになって世界観もどんどん変わっていったことが未だに記憶に新しいです。

中学・高校は色々あったのものごくごく普通に天真爛漫な日々をすごしました。なので、ここでは割愛。



帆足、高校を卒業して18歳から福岡の専門学校へ進学

 

『専門学校へ進学』

これが人生で数年くらい後悔した選択になりました。

今でこそどうでも良いことですが、このときわたしは理学療法の専門学校に進学しました。

わたしが進学した麻生リハビリテーション大学校は、入学倍率は20倍以上とかで理学療法士の未来を信じており、自分のツヤッツヤの脳みそとハートをもっていました。

 

そんなツヤツヤの脳みそも入学してすぐ現実をみることに。

 

初日の説明会で「これからは就職難である」という説明をうけ、そこから初めてこの理学療法士その他の仕事を同級生たちとも調べましたが、給料も低いっ

それこそ大学の医学部(理学療法学科)から目指さないと病院勤務で稼ぐというのは難しそうで、このとき、まだ理学療法士になってもないのに開業免許のある柔道整復師(整骨院で先生って呼ばれている人)もとるか…とか、そういうことを虎視眈々と考えていました。

 

……がしかし。

 

ホアシ、志半ばで専門学校中退

 

結果的に専門学校は中退しました。

 

あまり覚えてないですが、単位数回の遅刻という理由で初年度から意味不明に留年になりました。

単位も取れてたし、他にも何回か遅刻した友人も留年してましたが、ホントこの頃って目覚まし何回かけても起きれないときあるんですよね。

酒飲んでもないし夜更かしもしてないし辛いもんです。

 

結果1年生を2回もしましたが、バイトに明け暮れて毎日のようにバイトをしていたので、2度めの授業はほぼ寝ていました。

この経験がきっかけてわたしは少しずつ世の中に疑問を持つようになりました。

 

異議をとなえるたびに評価をマイナスされ、そしてさらに負のスパイラルへ突入。

 

このあたりから世の中をかえていきたいと思うようになっていました。



中々に最低な専門学校で、まわりの友人からも「相変わらず目の敵にされているね」といわれるなか、卒業年度の病院実習になりました。

 

病院実習でトラブル……これが人生の分岐点。

 

実習先のバイザー(指導役の現場の理学療法士)にだいぶいじめられました。
※この時代は、実習先のバイザーがNOといえば卒業できない仕組みで、今はできます。

 

バイザーからは「俺は子供もいる中、必死に勉強して理学療法士になった。お前みたいなのに患者は任せれん」

とかそういう境遇の違いをよくいってましたね。毎日否定とダメ出しをされてよく泣いていました。

 

まさに「しらんがな…(ヘロヘロ)」

 

復習・考察という名の反省文をかかされてはバイザーから

「俺はこういうことを言いたかったんじゃない。今日は実習しない」とかそういう理不尽なレベルです。

 

見た目がチャラいといわれる事はあっても、中身は頑固レベルで真面目なところもあるくらいで、何がここまでダメだったのか……。

わたしの人生で、ここまで嫌われ続けたのは専門学校の先生以外でははじめてです。

 

徹底的にきらわれた理由

 

実習の不合格がきまったことに、きっかけ(理由)が2つ理由がありました。

 

  • 1つ目は、病院初日

同じ実習先で別の学校から一緒に実習がはじまりました。

その人(Tくん)夜間部で、わたしは中間部です。
その人は夜間部で4年生、わたしは1年留年しているからある意味4年生…

帆足「同い年だね。タメ語なしでいこう!よろしくね!」

 

でもね…

このTくん、3つくらい年上だったんです。
見た目も若いし人当たりもいいし、もう勝手に意気投合した気にわたしはなっていたんですが、わたしはバイザーにきつく指導される中で中盤にいわれたんです。

 

バイザー「俺は(Tくん)年上に敬語つかえんような礼儀のないやつは嫌いやけん合格させんけん」って。

 

しらんがな!!!

 

  • 2つ目の理由

今回の病院実習、長崎の西海市というど田舎の病院で、実習生は全部で4人いました。

わたしは4人のなかでも実技と知識的にもどちらかというと教える側に回っていました。
留年効果で学ぶ時間が多かったですからね。

 

しかしバイザーの効果もあって、まともに実習させてもらえていませんでした。

難しいレポートとダメ出し苦しい日々だけが続いていて、他の学校の友人の病院実習ではバイザーとキャバクラいったとか楽しい報告が同い年のグループでは話しがまわってきていました。

そのころ一方でわたしは、病院の飲み会(田舎なので店というかなんかプレハブみたいなところ)で学生と現役のスタッフとの飲み会がありました。

これがまた気持ちわるい思い出ですが、20杯くらいビールを飲んでははいてを繰り返して意識もうろうになっていました。

このころはまだタバコを吸っていて、酔っ払って「タバコすわせて下さい」って伝えたらビンタされて、もうほぼ終わった頃だったのでその後は悔しくて泣き続けたままその場をあとにしました。

次の日は、出目金みたいな目をして完全に別人のようでしたよ。

この自己紹介をかいていたら、筆が勝手にすすむほど、この頃の記憶というのはいまだに鮮明です。



話しがそれました。

わたしが世渡りベタだったのかそういう激しい日々を送っているなか、その病院の副院長が、わたしがいないときに他の実習生に訪ねてきたそうです。

「なぜ帆足くんは接する限りちゃんとしているのに何もさせてもらえてないの?」と。

わたしはだいぶやつれていました(もともと若いしスリムボディですが1ヶ月ですでに6キロくらいやせていました)ので、他の学生たちがわたしが頑張っていることを伝えてくれたらしいです。

 

なにも知らないわたしは、次の日バイザーに大事な話しがあると呼び出されました。

 

バイザー「副院長に何かいったんやろ?副院長から帆足くん頑張ってるから認めてあげなさいって言われたけど、お前の合否を決めるのは俺やけん」

 

帆足「……( ゚д゚)」

 

となったものの言い訳はきかんとか冷静に癇癪まわしてたので、とにかく頑張る意向を伝えました。

 

そうするとパーキンソン病の患者の治療レポートを実際の患者を検査して、明日の朝までに提出しろそれで合否を決めると・・・。

ただでさえ毎日厳しいレポートをねれず作り続けてるのに、難しいパーキンソンで学生が何ができるんじゃいとひねくれて思いましたが、その日も寝ずに作り上げました。

 

実習、中断。2度めの留年決定。中退へ。今思えばアザス!!!

 

ま、わかっていたことですが、バイザーからは最後の面談ということで「残念やけど、不合格で今日で終わりね」とやっぱりいわれました。

涙を流して「実習を続けさせて下さい」といいましたよ。

4年間分の授業料とわたしの人生という時間がかかってますから必死にお願いしました。

 

でもNOだと。

 

親に申し訳ねぇ…。おれの人生どうなるんやろ…。

そう思いながら片付けをしてバイザーに最後の挨拶にいきました。

 

本当は殺意がありましたが「今までありがとうございました」と伝えました。

 

このバイザーなんて言ったと思います??

 

『あの最後の面談のとき、土下座して続けさせて下さいっていってきたら、合格にしとった』

 

~Fin~

 

もどって一応、学校に抗議もしましたけどね。

 

とりあってくれず、唯一見方をしてくれる先生もいましたが「力不足でごめん」って泣いていました。

泣くくらいならどうにかしてくれよ!と思うばかりでしたよね。

 

今でこそ「理学療法士にならんでよかったあ〜〜〜!」と思うことがありますが、しばらくは親も泣くし「あんたが悪いんやろ」ってもう家族からも見放されるし、無駄にコンプレックスの塊でした。

 

実習のTHE・余談



実習生のTくんと女の子のOちゃんとはじめて勉強会をした日、Tくんのうちで睡眠不足すぎて横になったら気絶レベルで意識が途絶えていたんですね。

その間に何が起きたか…。

 

TくんとOくんはすっかり仲良くなっていまして、事に及んでいました。

(おいおいふたりとも彼氏彼女いるだろうよ!泣)

 

邪魔したらいけないのでこっそりかえりましたが、そのあとTくんから「人間不信になってるなかこんなことして本当にごめん」と連絡がきました。

 

「人間不信にはなってねーよ!\(^o^)/」

 

世渡り上手ってこういうことなんだなぁ、と年上のTくんからくんに学ぶことはたくさんあるなぁとしみじみ感じる実習でした。

 

ほあし、ここからはれて社会人になる!

 

わたしが人生に絶望して、手に職とかいろいろと悩んでたころ、世間ではリーマンショックがおきていたようです。

世界的大事件なわけですが、もうそれどころじゃないというか、実習中はもちろんテレビなんてみる暇なかったのでまったくしりませんでした。

そんな中、就活スタート!

 

100年に一度の就職氷河期やべぇ…

 

この一言につきました。

 

募集は出ていませんが、ググる(検索する)とどこも即転職系のブラックか、飲食かマッサージくらいしかまともに出てきません。

飲食は、あの和民(ワタミ)でガッツリバイトしたし、マッサージはなんか理学療法士になろうとしていて挫折した感じで嫌だし、何よりそんな稼ぐビジョンが描けない。

何よりその頃の求人で就職は、まともなところを選ぼうとすると<条件>大卒以上というものがほとんどで、残ったのは自分で起業するかブラックの営業に飛び込むくらいでした。

 

ブラック起業の営業へ飛び込む

 

ブラック起業っぽいところですら、ほぼ書類で落とされる日々。

そんな中でも拾うブラック神あり、というのは本当で合格しました。

 

俺ならやれる とそう信じていましたが、そう甘くはあまくはありませんでした。

全国規模の会社で営業中心の会社にはいり入社してすぐ東京研修で全国から中途の同期が10名ほど集まり研修を受け、これは結果的に1、2ヶ月ヶ月ごとに全国で10人近く採用されるのに1ヶ月後には半分、半年後には一人しか残っていませんでした。

 

もちろん私は2ヶ月で辞めました。

 

辞めた理由にあるあるなこともあります。

  • 営業ミーティングで毎回、気合で叫ぶ
  • 怒るときは壁を殴りながら叫ぶ
  • チームごとに一日何回も叫ぶ
  • 基本的に電話営業で大手の名前を利用(嘘)する

 

自分にとっては、叫ぶことよりも、そんな中でもトークは開花しつつありましたが、騙して得られるものに価値をみいだせなかったことが大きいです。



派遣バイトで日銭をかせぐ

一旦、集中して就活してもロクなとこないので、生活のために派遣会社でバイトをはじめました。

あとで知りましたが、派遣会社にもたくさんの種類の仕事と得意分野がわかれています。

 

その頃、私によくくる仕事は引っ越しと重量の荷運びのバイトでした。

重量の荷運びの仕事は、永遠に20KGくらいあるものを一定のスピードで運ぶ必要があって、筋肉痛というか、もう最初の数時間で身体が動かないくらいまで追い込まれて、最後は感情をけしてロボットのように、廃人のように作業を繰り返して、死ぬように一日を終えました。

給料は7000円です。

もうそのバイトは二度といきませんでした。

 

引っ越しのバイトは移動時間もあるのでまぁメリハリもあって普通に頑張っていました。

しかし、この引っ越しのバイトを繰り返すことで腰痛をわずらってしまいました。

身体はしっかり鍛えておかないと、こういうことになるのでくれぐれも肉体労働こそ計画的におこなうべきでしょう。

 

帆足、人材派遣会社から引き抜かれる

 

引っ越しのバイトもこなすなかで、まぁまぁ信頼できるやつだと思われたのか、ガソリンスタンドでお得なクレジットカード勧誘の仕事もするようになりました。

接客兼営業なイメージです。

なんでも極めることをしないとつまらなくなってしまう性分なので、これも頑張って行く度にガソリンスタンドでは過去最高の加入件数をもらうなどの成績をだしました。

 

そうこうしているうちにガソリンスタンドでお得な洗車券の販売というカード加入からすると遥かに簡単な仕事でここでも歴代最高枚数の販売(話しかけた98%には買ってもらっていました)をしてすっきりしているところに、派遣会社の社員がたずねてきて、はれて社員になったわけです。

ほあし、調子にのって結果クビに。笑

 

全国で社員15人位の小さな派遣会社で、社員になってからは派遣の仕事を受託する営業をしながら、派遣スタッフを手配・教育するコーディネーター、現場フォローまですべてやりました。

 

福岡の会社はまともでしたが、他の支店ではサボる事に前向きな支店長と部下たちがはびこっている会社で、これまである意味スパルタな環境でもがいてきたわたしからすると、新規営業受託数トップになるのに時間はかかりませんでした。

 

2ヶ月でトップとなり、ちょうど小さな福岡支店のトップがやめることに。

 

社員は私だけになり業務量もふえるため、調子にのって責任と成果とこれからも頑張らないといけないからと、昇給をもとめました。

結構、しつこく交渉しました。

 

後日、社長にホテルのロビーに呼ばれ言われました。

 

「喉元にアイスピックを突きつけられているようだ。キミはいつか会社を乗っ取るだろう」

これが伝説の名台詞です。

ショックはうけたものの、若さってなんだかな〜、としみじみ若さだけでは社会では淘汰されるなとしみじみ感じました。

会社の取引先からは「君がいく会社に仕事回すからまた派遣業するなら声かけてね」と言われ、これにおびえていたのか…と客観的に社長のことを考えていました。



不動産会社へ就職

実は不動産会社の前にとりあえず応募2,3ヶ月くらいホームページ制作の会社に就職しましたが、ここも「無料で制作します」という胡散臭い営業でしたので、すぐやめました。

リーマンショックのあとの時代は、相変わらずこういう会社ばっかりということを改めて実感したわたしはあらためて3年後に起業しようとこのとき決めたんでした。 これを書くまで忘れていました。

 

どの業種で起業するとかはまったく考えていなくて、とりあえず実力で出世できる匂いがした不動産会社中古外車営業まんだらけに応募して3社ともうかったため、一番面接時に「残業もほぼないし、はよかえってよ」とか、まともそうなことを言っていた不動産会社に就職しました。

 

嘘だとも知らずに……。

結果的にこの会社でも色々ありました。

  • 入社してすぐ給与体制変更

初年度から販売棟数トップになりましたが、最初の時点でもったいないと感じたのか、歩合(インセンティブ)制やめたから、ということで、入社時に説明されていた稼ぐモデルが崩壊し、全社員で一番安い給料ですごしました。

  • 夜からの話しが長い

ほぼ毎日21時くらいから、1時間以上ありがたい話しをきかせてくるので、メンタルにくる。
俺仕事好きだけど女の子とか体力的にきつかっただろうな。

  • ここは北朝鮮的なのかと思うくらい意見がいえない。

社長とおつぼねが雲の上の存在で誰一人意見をいわず、一方でみんな陰口をいっていてこれは自分と合わない…。

 

そういったことなどここでは書ききれないくらいたくさんのことがありました。

 

ほあし、そんな中2年で退職

もともと最後の就職先にしようと思っていたため、最低でも3年間は続けてから何かしらで起業しようと思っていましたが、結果的に2年間で起業することになりました。

大きな理由は以下2つ

  • 拝金主義で顧客を使い捨てして良いという発言

2年目で件数、売上ともにぐんを抜いてトップセールスとなりました。

給料も低かったやることもなかったし、休み返上してずっと働いてましたからね。

トップですがよく晒し者にされていました。

それは何かしらの契約などで会社にとってもっとも利益がでる契約でとってきていないということです。

この不動産の投資のサポートする仕事は、顧客に儲かっていただいてリピートにつなげることだと考えていましたが、この会社では顧客はいくらでもいるからそんなこと気にしないで良いということでした。




* 給与で2回目の嘘をついたこと

ある一定の成果を出し続ければ、この待遇を約束するという内容でしたが、給与査定のときに「成果は残したけど、若いからこんなに給与出したら帆足くんのためにならない。だからこれくらいしか出さない」といわれたことです。

こんなにって、400万とか450万ですからね?!

次の年には年収500万を約束されていましたが、自分より仕事しない中途社員がこの時年収500万以上でどんどんはいっては辞めてるのを隣で見ていたので、ついていけないと思って辞めました。

このとき実は嘘つくと思っていたので、直属の上司には「嘘ついたら辞めるからあとよろしく」と伝えていました。

そんな中、転職してよかったこと。

派遣会社をしてからおもったことですが、大変だけどとってもやりがいがありました。

必死に働けばお客さんのためになりました。

今回の不動産でもおもったことも同じで、自分次第でだます商品でも売り方でもなかったので、ここでも頑張れば頑張る分、自分の存在価値を感じることができました。

お客さまから「ありがとう」と本気で言ってもらえるし、お客さまに本当に慶んでもらえることができる営業の仕事で本当に仕事が好きと思えたし、感謝されてお金をもらえることが本当にうれしくて、そのままの仕事で起業することになりました。

 

ほあし、23歳で投資デビュー

 

不動産会社在籍中のはなしになりますが、周りの社員はだれも不動産投資をしていませんでしたが、自分は勧める以上、自分でもやりたいと思ってはじめました。

 

最初に買ったのは新築分譲マンション(ファミリータイプ)です。

住宅ローンで買ったもので、自分で住もうとも思っていましたが、このときの社長が「高級な家に住むとか早いよ」とアドバイスいただいたので、やっぱそうだなと思って人に貸しました。

 

若造にはもったいない新築プレミアム!

年収280万しかないのに、貸したら11万の家には住めねぇ…。

この選択もあって少しお金がたまりました。

※銀行にはちゃんと伝えています。



起業資金の捻出

 

よく「2代目ですか?」ときかれますが、創業者です。

お金は借りずにためました。正確にいうと就職に至る前に姉に数十万かりていました。

 

天真爛漫に営業していた不動産会社につとめて1年経ったころ転機が訪れました。

このころ、この会社では3年持たないかもしれない…と感じていました。
(やめたいとかじゃなく、この会社に利益のこしても世の中のためにならない…)

 

そんな中、管理物件で自殺が発生。

社長が小馬鹿にしながら言ってきました。

「1万でいいから帆足くん住まない?お金ほしいでしょ」

とってもむかつきましたが、笑顔で合意しました。

 

なにせこのころ起業したいけど、お金ないし給料は伸びないしで、自分で家計簿までエクセルでつくって厳密に管理しましたが、貯金では限度があります。

一番お金がかかっていた家賃と車があったため、おもいきって車は売り払って1万の家賃の家に住みました。

休みの日も遊ぶつもりはなかったので、予定がなければ例のクビになった派遣会社で社員みたいなバイトもしました。

1年目から貯金していたので、これらを続けて2年間で200万ためて起業しました。



そういうことがあって帆足は24歳、予定より1年早く起業

 

どこにも雇ってもらえないこと、欲をすてて生活したこと、お客さんからの感謝があること……

それらも相まって、結果的にサラリーマンでも嫌なやつのためにストレスためて報酬も嘘つかれるなら給与2,300万でも起業したほうがマシだと思って、起業したんです。

このときは、失敗したら失敗経験のある元社長としてどこかに雇ってもらおうと思ってたくらいです。

辞める月までしっかり売上あげて辞めてセコいことはしませんでしたので、起業してから初めて売り上げるまで3ヶ月間かかりました。

 

帆足 太一、現在にいたる

 

私は相変わらず波瀾万丈に謳歌しています。

以前からそうですが、私は仕事というより商売が好きです。

そして、人を騙してまでお金はほしくないし、儲かったとしても志に反する仕事もしたくないようです。

でも自分なりにお客さまと社員のためを思って商売していますので、新しいコトやモノに投資をして、不動産に関わらずたくさんのことにチャレンジしていっています。

どうぞ宜しくお願いします。

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